短時間労働者の社会保険加入を巡る「年収の壁」は、多くの企業様にとって重要な経営課題の一つではないでしょうか。特に社会保険の適用範囲は年々拡大しており、この動向を正確に把握し、適切な対策を講じることが求められています。
従業員の方々が「壁」を意識して労働時間を調整してしまうと、人手不足の解消が難しくなったり、生産性低下につながったりする可能性もございます。また、企業の社会保険料負担が増えることへの懸念も耳にすることがございます。
このコラムでは、企業の皆様が直面しやすい「年収の壁」の課題と、それに対応するための制度のポイント、そして会社がとるべき具体的な対策について、社労士の視点から分かりやすく解説いたします。
企業の皆様が直面する「年収の壁」にまつわる課題
近年、社会保険の適用拡大が進む中で企業の人事・労務担当者様から、次のようなお悩みを伺うことが多くなりました。
従業員の労働時間調整による人手不足の深刻化
- パート・アルバイトの方が社会保険加入を避けるため、意図的に労働時間を短縮し、結果として業務に支障が出るケースが見られます。
従業員のモチベーション低下や不満
- 社会保険に加入すると手取り額が一時的に減ることを懸念し、従業員の方が不利益を感じてしまうことがあります。
企業側の社会保険料負担増への懸念
- 適用拡大により新たに社会保険加入の対象となる従業員が増えることで、企業様の社会保険料負担が増加する可能性がございます。
制度への理解不足と複雑な対応
- 「106万円の壁」「130万円の壁」の仕組みや国の支援策が複雑で、どう対応すればよいか分からないという声も少なくありません。
これらの課題を解決し、従業員の方が安心して働ける環境を整えることは企業の持続的な成長にも繋がると考えられます。
「年収の壁」制度のポイントを理解する
まずは、社会保険の「年収の壁」に関する基本的な制度について確認しましょう。
1. 「106万円の壁」とは
「106万円の壁」とは、短時間労働者が自身の意思に関わらず、社会保険(健康保険・厚生年金保険)の加入義務が発生する年収の目安を指します。
これは厚生労働省の規定に基づいており、以下の要件を全て満たす場合に適用されます。
現在の適用要件(2026年3月9日時点)
- 週の所定労働時間が20時間以上
- 月額賃金が8.8万円以上(年収約106万円以上)
- 2ヶ月を超える雇用の見込みがある
- 学生ではない
- 勤務先の従業員数が51人以上
この企業規模要件は段階的に拡大されてきました。
具体的には2022年10月からは従業員101人以上の企業が対象となり、そして2024年10月からは従業員51人以上の企業へと拡大されております。今後さらなる適用拡大が検討される可能性もございますので、最新の情報に注視していくことが大切です。
2. 「130万円の壁」とは
「130万円の壁」とは主に扶養されている方が、健康保険・厚生年金保険の被扶養者から外れる年収の目安を指します。
適用要件
- 年収が130万円以上になると、原則として被扶養者から外れ、自身で社会保険に加入する必要があります。
この「130万円の壁」については、2023年10月から「年収の壁・支援強化パッケージ」が導入され、一時的な収入増への対応策が講じられています。
一時的な収入増への対応(事業主証明)
- 残業などで一時的に収入が増加し、年収が130万円を超えても、事業主が「一時的な収入増である」と証明することで、引き続き被扶養者認定が受けられる制度です。
- この制度は連続2年間まで利用が可能とされており、従業員の方の急な手取り減を避けるための重要な支援策となっています。
- 健康保険組合や年金事務所への申請が必要となりますので、具体的な手続きについては確認が必要です。
3. 「年収の壁・支援強化パッケージ」とは
前述の事業主証明の他に、2023年10月から「年収の壁・支援強化パッケージ」として、企業様向けの助成金制度が導入されています。これは社会保険適用促進を図りつつ、従業員の手取り減少を補うことを目的としたものです。
キャリアアップ助成金(社会保険適用時処遇改善コース)
- 短時間労働者を社会保険に新たに適用させた企業様が対象となります。
手当等支給メニュー
- 社会保険加入に伴う従業員の手取り減少分を補填するため、基本給の増額や諸手当の新設などを行った場合に助成されます。
- 特に「社会保険適用促進手当」を創設し、最大2年間、社会保険料算定の対象外とすることも可能です。
- 具体的な助成額は中小企業の場合、労働者1人あたり最大50万円(1・2年目各20万円、3年目10万円)が支給される可能性があります。
労働時間延長メニュー
- 所定労働時間を延長し、社会保険に加入させた場合に助成されます。
- 具体的な助成額は、週の延長時間等に応じて、中小企業の場合、労働者1人あたり最大30万円が支給される可能性があります。
併用メニュー
- 上記の手当等支給と労働時間延長の両方を実施した場合に適用されます。
これらの支援策を積極的に活用することで、企業様も従業員の方も安心して社会保険の適用拡大に対応できる仕組みが整っています。
会社がとるべき具体的な対策
社会保険の適用拡大は、企業様の経営戦略にも影響を与える可能性がございます。従業員規模50人~1000人規模の企業様においては、以下の対策をご検討いただくことをお勧めいたします。
1. 従業員への丁寧な情報提供とコミュニケーション
「年収の壁」や社会保険制度について、従業員の方が正確な情報を得る機会は意外と少ないものです。
- 制度説明会の実施: 社会保険の加入メリット(将来の年金受給額、傷病手当金、出産手当金など)を含め、分かりやすく説明する機会を設けることが考えられます。
- 個別相談への対応: 人事担当者や社労士が、個別のケースに応じて丁寧に説明することで、従業員の方の不安軽減に繋がります。
- 情報発信: 社内報や掲示板などで情報提供を行うほか、厚生労働省が開設している「社会保険適用拡大特設サイト」のシミュレーターなどの公的なツールを活用することも有効でしょう。
2. 賃金制度・評価制度の見直し
社会保険加入によって一時的に手取りが減少する従業員の方への配慮は、定着率向上に直結します。
- 基本給の引き上げ: 社会保険料負担を上回る基本給の引き上げを検討することに加え、就業調整の要因となりやすい「配偶者手当」の支給基準を見直すことも、従業員のモチベーション維持や働き方改革に繋がります。
- 社会保険適用促進手当の活用: 前述のキャリアアップ助成金と併せて、社会保険適用促進手当を導入し、手取り減少分を補填することが考えられます。
- 多様な働き方の推進: 短時間正社員制度の導入や業務内容の切り分けなど、従業員が自身の希望する働き方を選択しやすい環境を整備することも、長期的な人材確保に貢献します。
3. 業務内容の見直しと生産性向上
従業員が労働時間を気にせず、能力を最大限に発揮できる環境を整備することは、企業全体の生産性向上に繋がります。
- 業務の効率化: デジタルツールの導入や業務プロセスの見直しにより、少ない労働時間でも成果を出せるよう改善することが考えられます。
- 適材適所の配置: 従業員一人ひとりのスキルやキャリアプランに応じた業務を割り当てることで、エンゲージメントを高める効果も期待できます。
【まとめ】
社会保険の「106万円・130万円の壁」を巡る問題は、単なるコストの問題ではなく、従業員の働き方やモチベーション、ひいては企業の成長戦略に深く関わるテーマです。
- 2024年10月からは従業員51人以上の企業へ「106万円の壁」の適用が拡大されており、多くの企業様が対応を求められます。
- 2023年10月から開始された「年収の壁・支援強化パッケージ」は、企業様が対応を進める上での重要な支援策となります。
これらの制度を正しく理解し、従業員の皆様への丁寧な説明と実情に合わせた賃金制度・福利厚生制度の見直しを進めることが、これからの時代に求められる企業の姿と言えるでしょう。ご不明な点やご不安な点がございましたら、是非当事務所へお問い合わせください。
